FEMA −システム化を図る米国の災害対策

1995年5月
小澤直子 医療社会学者、医療社会コンサルタント

 

マニュアル化された米国の災害対策システム

阪神大震災は災害体制の不備という点では人災であった。なぜ被害が広まったのか。ノースリッジ地震で迅速かつ確実に人命救助、被災地復興を行い評価が高かった米国の「危機管理」システムを紹介しながら、今後の災害対応を考えてみたい。

人命救助すらままならなかった阪神大震災

災害は世界各国共通のものである。ところにより呼び名は違っても、自然災害はどこの国でも起こりうる可能性がある。そして、どこの国でも災害対応の第一は、人命救助であることにかわりはないはずである。しかし、今回の日本の死者5400人以上という数字は、天災をはるかに越えた人災といっても過言ではない。
日本では阪神大震災以来、「危機管理」という言葉が国会はもとより会社経営にいたるまであちらこちらで話題に上がった。しかし、いったい何人の人達が、本当の意味で「危機管理」の定義を押さえているだろうか。「危機管理」とは問題の起こった場所の二ーズを知ることにあり、その二ーズと自己のギャップを埋めることがマネージメント、管理ということにほかならない。災害対応で言うならば、まずは被災地でいったい何が必要となっているかを把握することであり、対応のために自分はどれほどの資源を持つかを知ることである。すなわちキーポイントは「情報管理」と「資源管理」のふたつに尽きる。

ボトムアップで迅速対応

阪神大震災のちょうど1年前の1月17日にカリフォルニア州ノースリッジ地震が起こった。地震は午前4時半に発生、マグニチュードは6.8、死者61人、負傷者数は9千人以上にのぼった。
地震発生の数分後、ロサンゼルスの各消防署はすぐに緊急災害体制に入っていた。こうした行動は誰かから命令されて行うのではなく、地震後はいつでもこうした体制に入るものと決められており、各消防署は自発的に活動を開始する。まず管轄地域内の人材数や消防車をはじめとした機材などの確認を行う。その後、直ちに被害状況を見に出かけ、状況報告が手際よくなされていく。情報報告には一定の用紙を使う。用紙は、死者数や負傷者等を所定の項目に数字を書き込むだけですむようになっている。このような形式化は多くの各消防署からの情報が統一されると共に、時問の短縮化を計るという利点がある。消防署が火災の危険にある場合は、まず消防署内の資源を安全地帯に移すことが第一となる。
やがて各消防署を経てロサンゼルス市庁舎地下4階に開設された緊急対策本部に集められる。すみやかな情報分析と判断により、市長をはじめ消防署長、警察署長などの幹部らによる話し合いがなされる。ノースリッジ地震の場合、地震発生から1時間14分後に市長は「緊急事態」を宣言。同時に州知事にも報告され、州知事は直ちに「災害地」指定宣言をした。州ベルでも州の対応能力に見合うかいなかの分析が行われ、ノースリッジ地震は、州の対応能力を超えるとの判断から州知事は大統領に連絡を入れた。
ノースリッジの例をみてもわかるように、アメリカでの対応はまず災害地の自治体から上にあがるボトムアップシステムが基本となっている。アメリカは連邦国である。従って各州が独立した行政能力を持ち、各自治体は住民のための緊急災害対策を持っている。マニュアルには、一目でわかるオペレーション・フローチャート(災害時の責任者や各省庁の役割、伝達機能などの図式)なども含まれている。現場での災害対応には統合型対策指令システムが用いられ、自然災害の場合は自治体の消防署長が指揮官となる(暴動などの場合は警察署長が指揮官)。たとえ災害規模が大きくなり国の援助が必要となった場合でも、現場を一番よく知る自治体の人間が指揮を取るのは当然と言える。

民間防衛から生まれた防災システム

アメリカは連邦レベルで災害など緊急事態時に対応するために連邦緊急事態管理庁「FEMA」(The Federal Emergency Management Agency)を持つ。FEMAは本部をワシントンD.C.に置き、全米を10地区に分けて管理、管轄している。平常時、非常時を問わず、災害において連邦政府の中心に位置するよう組織されており、約2700人が働いている。
連邦政府の緊急災害への対応は、1950年に制定されたThe Civil Defence Actをきっかけに大きく変わった。1950年代のアメリカの緊急管理政策は、ソ連からの核爆弾への備えを中心としており、62年のキューバ危機により市民防衛の意識はますます強化された。その後、64年のアラスカ地震、65年のハリケーン「ベッツィー」、71年のサンフェルナンド地震といった州レベルでの対応を超えるような大型の自然災害が相次ぎ、国全体としての自然災害対応のための対策面での強化が叫ばれ始めた。
78年、カーター大統領は災害管理の大改革に取り組み、各省庁でぱらばらに行われてきた災害時の対応を一つの傘のもとへまとめる試みがなされた。大統領令により79年、FEMAは緊急時に他庁をリードする官庁として設立された。FEMAの活動は大統領が国家レベルの大規模災害に指定宣言することによって始まる。ノースリッジ地震の場合もカリフォルニア州知事が大統領に直接電話で指定宣言の要請を行っているが、一方で管轄地区の担当FEMAオフイスからワシントンの本部を経て、FEMAの長官が大統領に直接連絡することもできる。またFEMAの使命は、災害の程度が被災地の自治体の対応能力(財源、設備機材、指導力など)を超える場合、その自治体への協力、サポートを行うことにある。
このように書くとFEMAをスーパーマンのごとく即座に対応してくれる役所のように早合点する人もいるようだが、FEMAの人達がシャベル片手に被災地に駆け付け、被災者を助け出したりテント張りをするわけではない。そのような作業は州兵軍やレスキュー隊などが行い、FEMAはあくまで自治体の補助的なサポートをするだけである。言い換えれば災害は、自治体にとっては行政手腕が試される“ショー”のようなもので、采配振りを披露するのは往々にして州知事となる。スポットライトを浴び、州知事の監督、指導力はいかんや、といったところだ。FEMAは俗にチェックブック庁と呼ばれるように、主に自治体の財政能力を超えた時の対応に当たる。例えば落ちた橋や高速道路補修のための財政援助である。同じく家を失った個人や企業への復興資金の補償なども行う。
日本では阪神大震災後、政府の対応があまりにもひどかったためにこのアメリカのFEMAが一躍脚光を浴びてしまった。日本型FEMA設立の是非も問われている昨今であるが、アメリカのFEMAとて今だ完壁ではなく、特に89年のハリケーン「ヒューゴ」の対応のまずさは散々な批判を受けたのは記憶に残る人も多いにちがいない。
しかし、FEMAは学んでいるのである。過去の過ちをしっかり教訓にして組織の再編成や対応改善を試みている。特にクリントン大統領以来、アーカンソー時代から大統領の友人だったといわれる元アーカンソー緊急災害局長のウィット氏がFEMA長官になってからFEMAは大いに改善され、生まれ変わったとまで言われてる。従ってノースリッジ大地震の対応は迅速かつ的確に行われ、高い評価を受けている。
CMCHSはその後改良され、戦時には国防総省の医療システムをサポートし、国内の大きな災害時には市民の救済に充てられるようになった。さらにレーガン大統領時代に備える政策の改良や改革が進み、82年終わりにはNDMSが誕生したのである。
アメリカにおける緊急災害時の対応は、戦争に備えた危機管理法を基礎に応用し、改善して自然災害に対処できるよう工夫してきたものである。マニュアルや様々なシステムも、多くの人種から成るアメリカ社会において、いかに公平性を保ちながらかつ迅速、確実かつ効率良い方法を取るかを常に年頭に置き据えながら考えだされた。
現在、日本の社会でアメリカ型FEMAが合う、合わない、と取りざたされているのも事実であるが、我々が見落としてはならないのはFEMAという組織の構成ではなく、アメリカ社会で何故FEMAが作られたのかという歴史と今日までのプロセス、またFEMAが持つフィロソフィを学ばなければならないという点である。
5400人以上の尊い命のために、神戸の一日も早い復興を考えることも大切である。しかし過去は過去、天災としてあきらめて前を向くのではなく、過ちに対する徹底した化学的な調査、分析なくしては、日本が「危機回避」の問題を解決できないのである。普賢岳、奥尻の経験が生かされなかったことを肝に命じて、日本が阪神大震災から学ぶことを切に願うしだいである。

 

[1995年5月号U.S. Frontline 掲載]

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