【The Clinical Current −クリニカル カレント−】
震災に苦闘した医療機関

1995年3月

 

阪神大震災で、兵庫県下では200を超える医療機関が全半壊し、20近い医療機関が全焼した。そうした中で、病院、クリニックは“野戦病院"と化すなど、日常診療とは異質の対応を迫られた。震災から1ヵ月半たったでもその影響が残っている。苦闘したいくつかの病院、クリニックを追ってみた。

(メディカル朝日 田沢健次郎)


救急病院になってしまった

「困ったのは、電話も電気も水、ガスも途切れて、周辺の情報が全くわからなくなったこと。病院の建物は無事でしたが、スプリンクラーが誤作動して水浸しになっていました」と住吉川病院(東灘区甲南町5丁目、ベッド数41床)の坂井瑠実院長は語る。同病院は神戸市内でも最大級の透析専門病院で、患者の大半は通院し、入院していた35人は無事だったものの、近くの病院が倒壊したり、六甲アイランドヘのモノレールが壊れたこともあって、地震直後から3日問は、本来の透析治療ではなく、救急車で搬送されてきたけが人の治療で野戦病院のようになったという。患者の名前を聞く暇もなく、出血、骨折の応急手当てに忙殺された。透析のベッドもこういう患者で埋まってしまった。「うちのように普段救急をしていない病院でも、234体くらいの死体検案書や死亡診断書を書いたくらいですから、それはすさまじい災害ですよ」。
透析患者は1日おきに透析を受けなくてはいけない。だが、にわかに救急病院と化したために、通院できなくなってしまった約280人の患者が出た。彼らには血中のカリウムイオンを上げない薬を飲んでもらって、電車が通じている駅まで歩いてもらったり、救急車や自衛隊のトラックで搬送してもらったりして、北区や西区など被害の少ない地区の透析病院や大阪の病院に通ってもらうことで乗り切ったという。
「すぐ向かいが消防署で、一刻も争うから、と拝み倒して、救急車を走らせてもらいました。日ごろから透析医会は連携がよく、今度も兵庫県内や大阪市の病院が受け入れてくれました」と坂井さんは語る。

10日後に届いた空きベッドの情報

兵庫区東山町3丁目の高台にある川崎病院(後藤正宣院長、ベッド数297床)はJR神戸駅から車で10分、神戸市営地下鉄の湊川公園駅のすぐそばに位置しているが、地震後は両交通機関とも不通になった。地震直後に発生した火災があと数百mという所まで迫ったが、風向きが変わって免れた。近くの約70床の病院は焼失した。しかし、川崎病院の新館と旧館をつなぐ通路がずれて、透析や手術ができない状態が続いた。「患者の透析をやめるわけにはいかないので、北区や明石市以西の病防に紹介し、搬送しました。1日おきに透析する患者は80人近くいて、たくさんの患者を紹介した病院には、その近くに住む私の病院の看護婦を派遣させました。ここの病院に運ばれてきた人は建物の下敷きとなってDOAの状態で運び込まれる人が多かったのに、どこの病院に空きベッドがあるのかという情報が届くのも遅かった」と後藤院長は言う。例えば、国立神戸病院に置かれた厚生省の現地対策本部から「救急患者を受け入れる、ヘリコプターも使える」というファックスが届いたのは地震から10日後の27日。「本当に必要な時期は過ぎていましたよ」と後藤さんは言う。
「問題になると思うのは、被災時の診療報酬の請求はどうなるかという点です。救急隊が運んできた患者で、保険の種類もわからないし、住所も不確定という人がかなりいた。病院内は散乱し、コンピュータも全部使えなかった。その週の終わりにやっと整理ができた。それまではカルテも作れず、診療費の計算もできなかった」。
「救急患者として来た人に、その後避難所生活をしている人が多い。避難所ではボランティアの医師が治療しますが、病院では保険診療となる。病院で治療してもらい、後はボランティアに治療してもらっているという人がかなり多いのではないでしょうか。ボランティアに診てもらう場合はお金がただというケースが多いでしょうから、病院から避難した患者が今後果たして戻ってくるかどうか」。
同病院の診療圏はほとんどが被災地で、地震前までは1日700〜1000人の外来患者があったのに、地震後は400〜500人に減ったという。「これからの病院経営が大変です」と今後を心配する。

副院長が陣頭指揮

甲南病院六甲アイランド病院(東灘区向洋町中2丁目、原田康院長、ベッド数307床)の内藤秀宗副院長は、地震発生と同時に、自宅に近い姉妹病院の甲南病院(東灘区鴨子ケ原1丁目、老籾宗忠院長、ベッド数400床)に駆けつた。機械と入院患者の安全確認のつもりだったのが、ここで、病院の“総司令官"として陣頭指揮した。
病院に着いたのは午前6時15分。340人の入院患者のうち、4〜5人が余震を恐れてベッドから転落しただけだった。内藤さんは、甲南、六甲アイランドなど3つの病院の設計にも関与していて、電源や配管がどこにあるかなど病院の内部構造が詳しく頭に入ってい
た。これが陣頭指揮を執るのに大いに役立ったという。午前6時45分ごろから、外傷患者が歩いて来るようになった。透析室に空きベッドが33床あるから、そこに重症者を搬送せよ、内科系の医師は外科系の処置に対応せよ、と指示した。病院のメーンホールに看護婦と看護学生を集めて、4人1組のチームを10班くらいつくり、透析室、玄関、外来担当というように分け、「私の指示を徹底せよ」と命令した。
午前7時半以降には、DOAやDOA寸前の患者が畳や板、ふとんにくるまれて続々と運ばれてきた。病院に駆けつけてきた医師たちに、病棟と外来にへばりつくようにと指示、「実際に私たちに何ができたかというと、患者はショック状態で殺到するから、蘇生器(ア
ンビューバッグ)をもむ暇もないほどだった。玄関に運ばれてくる患者にとっさの判定が求められた。死亡しているか、まだ生きているか、あるいはその中間か。聴診器とペンライト(瞳孔反射検査のため)を使って判定したが、生死判定を私ひとりで行っていいのか、わからなくなり、途中から私の判定をさらに別の医師にも確認させた」という。また、内藤さんは、病院のメディカル・スタッフと一般の人との区別がつかなくなるからと、病院のスタッフには予防衣を着用するように指示している。午前10時には、透析用のベッドが全部埋まってしまったという。
緊急時ということで、2日目からは、内藤さんが甲南病院と六甲アイランド病院の双方の財団本部長補佐という指揮官という形になったが、17日からの3日間で計1300人の患者が運ばれてきて、370人が入院、97人が死亡している。死亡患者はふとんの中で圧迫された状態で亡くなっていたのでほとんど外傷がなかった。「28年間医師をしていますが、ああいう死を見たことがない。全身がチアノーゼというか、幽霊のように青いのです」。「もう助からないと判断された患者に対しては、私が責任を持つから治療をシャットせよ、と指示しました。いままでの常識的な救急蘇生法では、患者1人に医師が1人から数人で対応するという形でした。医師1人に対してDOAの患者3人を診るという治療は習ってきていない。どの患者を救い、中断するか判断を下すのは非常に苦しかった。若いレジデントが一生懸命ハートマッサージをしているのを、『やめろ、次の患者にかかれ』と言わなくてはならなかった」。
災害で怖い疾患にクラッシュ症候群(挫減症候群)がある。倒壊した家などの下敷きになった患者は骨格筋細胞の融解で放出されたミオグロビンが腎機能を障害して急性腎不全を起こし、対応を怠ると2週間以内に死亡する。この病気だと浮腫や乏尿が起きる。内藤さんは、搬送されてきた患者にすぐ導尿をして、尿量を測り、この症候群にかかっているかどうかをチェックした。大阪市立大学とも連携をとり、マスコミにも呼びかけて、他施設でも患者が見つかった場合はすぐ六甲アイランド病院と大阪市立大学病院の両方に連絡し、受け入れ態勢もつくった。六甲アイランドと大阪港間の大阪湾を50人乗りのクルーザーを確保して医師が同乗した上で患者を搬送するようにもした。六甲アイランド病院ではこの症候群の患者18人全員を救うことができたし、23人をクルーザーで大阪市立大学病院に搬送することができた。また、1日に100tの海水を淡水化する装置をもった車も病院内に配備することもでき、手術や透析に必要な水の確保もできたという。
災害医療を研究してきた笹木秀幹・下田クリニック院長は「内藤副院長が今回実践したのは、米国での災害医療の対応によく似ていると言えます」と語る。

 

[1995年3月号メディカル朝日 掲載]

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